黎明期の日本のオーケストラ
0.言文一致運動による唱歌教育と文部省唱歌
大衆レベルでの西洋音楽受容史の最初のページは、おそらく4つの流れに
集約されるのではないかと思う。まず、アンサンブルの歴史としては、薩
英戦争に敗れた島津藩が、英国軍楽隊を模して作った「シマヅ・バンド」
に端を発する軍楽隊であり、2つ目は文部省による唱歌を中心とした西洋
音楽教育、3つ目はもっと草の根的なものであるが、キリスト教の教会に
よる主に賛美歌を中心とした西洋音楽の流布である。例えば、大正期の話
ではあるが、救世軍の賛美歌に使われていた"Marching through Geogia"
のメロディが演歌師、添田さつきによって、東京節(パイのパイのパイ)
に転用されたなどの例はある。しかし、教会による西洋音楽の流布は、そ
の宗教色ゆえに限定的なものではなかったかと思う。4つ目は日本に駐留
する外国人をターゲットとして来日し公演活動を行った外国の歌舞劇団が
日本人にも受容されるようになった流れである。
この章では二番目の文部省唱歌にスポットライトを当てて、日本の西洋音
楽受容史の第一ページを俯瞰しようと思う。
1878(明治11)年、東京女子師範学校が幼稚園児の教育用に宮内庁雅楽課に
歌の作成を依頼した。これが国内の音楽家が作った最初の子ども向け唱歌
集と言われている。
翌1879(明治12)年10月、学校教材用の
歌の作成・編
纂、教師の養成機関と
して「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり。明治20年
に東京音楽学校
となり、昭和24年、東京藝術大学音楽学部となった)」が文部省内に設置
された。初代所長伊沢修二は、アメリカから自らが師事したルーサー・W・
メイソンを招聘、歌集の編纂に取りかかる。そうして1881(明治14)年に
できたのが、日本初の官製唱歌集「小学唱歌集」である。
「小学唱歌集」の歌は、スコットランドやアイルランドの民謡が多く取り
入れられた。「蛍の光」「庭の千草」などがそれにあたる。一方、教育を
目的とした官製唱歌は文化の西洋化と共に、西洋の列強諸国に追いつこう
とする国威高揚という面も多くあった。
「小学唱歌集」に続き、「幼稚園唱歌集」「中学唱歌集」などの唱歌集が
次々と発刊されてゆく。そんな中で、田村虎蔵(1873-1943)や納所辨次郎
(1865-1936)を中心とした、言文一致運動による唱歌教育活動が登場する。
言文一致運動は、明治19年に国語学者物集高見がその著書「言文一致」で
の提唱を始まりとし、文学の方面では二葉亭四迷(1864-1909)による、写
実主義と言文一致の融合した運動に展開する。これが完成したのは、写実
主義という意味では夏目漱石であろうし、言文一致という意味では武者小
路実篤や志賀直哉らの白樺派によるものだろう。その影では、文部省が帝
國教育會の傘下団体として原文一致會を結成させるなど、政府の思惑も垣
間見られるのではあるが。これらの影響が田村や納所を動かす原動力になっ
たであろうことは間違いないであろう。


左:田村虎蔵 右:納所辨次郎
1900(明治33)年、田村虎蔵と納所辨次郎は「教科適
用幼年唱歌」初編上巻
を銀座の十字屋から発行する。言文一致唱歌集の第一号である。その緒言
には次のような趣旨が述べられている。
「明治の御世が開けるに従って、音楽の道も次第に進歩発達し、学校唱歌
についての編著書が多く出版されて繁栄を極めている。しかし、その多く
は、所謂名家大家が著作したもので、典麗高尚ではあるが、その中から小
学児童に適する唱歌教材を選ぶとなると、中々難しいのは我々が実地に経
験している所である。その題目、内容は、他教科との関連がとりにくく、
当事者の児童が、題目や歌詞の意味を理解できないものが殆どである。こ
れはまさに一大欠点で、早くから教育者、識者が遺憾に思っていたところ
である。」(この部分は、鎌谷靜男著「尋常小学読本唱歌編纂秘史」文芸
社2001年発行から引用した)
要約すれば、美しい文語体の唱歌は評価できるものの、内容が難しく、他
の教科との関連付けも不適当であるため、教育の場には使いづらい。だか
ら自分たちは、他の教科との関連性も考慮した、児童に合ったわかりやす
い唱歌の教科書を作ったのだ、ということになる。
では、これらの曲を聴いてみよう。まずは文部省唱歌から。
唱歌
「蛍の光」
納所文子、納所辨次郎、村田操
澤田孝一(ピアノ)
UGUISU 20
上のパートを文子と村田が、下のパートを辨次郎が歌っているようです。
現在は2番まで歌われていますが、聴き慣れない3番以降の歌詞は現代
の感覚からすると受け入れ難いものがあるように思います。しかし一方、
富国強兵し、帝国主義吹き荒れる西洋列強諸国に追いつき拮抗しようと
する思いが歌詞から溢れているようにも思います。それはアヘン戦争や
薩英戦争で西洋の軍事力や帝国主義をまざまざと見せつけられてきた、
新政府の宿願でもあったように思います。ちなみに3番以降の歌詞は次
の通りです。
筑紫のきわみ陸の奥
海山遠くへだつとも
その真心はへだてなく
ひとえに尽くせ国のため
千島のおくも沖縄も
八洲(やしま)のうちの護りなり
到らん国に勲(いさお)しく
務めよわが背つつがなく
ちなみにですが「背」とは恋人や夫を女性から指して言うときの言葉で、
逆の場合は「妹(いも)」と言います。それから「到らない国」とは、
天皇の御威光が届かない地域という意味で、これはこの歌の出来る2年
前の1879(明治12)年に琉球王国が日本に編入(占領?)されたことを指し
ているようです。ですから4番の歌詞は、決して卒業の歌だけではなく、
軍隊に入隊し、沖縄や千島列島などへ、日本による統治を推進するため
に派遣される男性に対して、がんばって来いと歌ったものということに
なります。こうして見ると、3番は国を興し、4番は国を守るという、
かなり政治的メッセージの強い歌詞であることがわかります。
では、曲のほうはどうかといえば、ハーモニーのつけ方が当時の西洋音
楽教育者のトップクラスであったはずの納所辨次郎ですら難しかったよ
うで、出だしの音が取れず、コケています。文子にしても、かなり音域
の広い曲ですので、高音部になるとかなり歌い辛いようです。

浦島太郎(石原和三郎作詞 田村虎蔵
作曲)
金太郎 (石原和三郎作詞 田村虎蔵作曲)
桃太郎 (田辺友三郎作詞 納所辨次郎作曲)
兎と亀 (石原和三郎作詞 納所辨次郎作曲)
井上ます子(ピアノ伴奏)
オリエント 1525
アコースティック録音
こちらは田村虎蔵(1873-1943)、納所辨次郎(1865-1936)の作曲、石原和三
郎(1865-1922)、田辺友三郎(1863?-1933)の作詞によるものです。浦島太郎
は文語調ですが、他は口語体になっています。これらに共通しているのは、
物語の一場面を写実している点と、政治的メッセージ性が全く感じない、
教訓めいた押し付けがましさがないことでしょう。浦島太郎や桃太郎は、
現在良く知られている文部省唱歌とは違うもので、浦島太郎は歌詞が文語
体だったりするので歴史を感じる歌ですが、金太郎や兎と亀は今も行き続
けている、口語調の歌詞もあいまって古さをまったく感じない、素晴らし
い曲たちだと思います。
田村虎蔵は、鳥取県岩美郡岩美町の生まれ。
1897(明治25)年に鳥取県尋常
師範学校を卒業、因幡高等小学校に赴任するが、同年9月東京音楽学校に
進学し1895(明治28)年卒業。1899(明治32)年に東京高等師範学校兼東京音
楽学校助教授となり、音楽教育の改革を推進する。「言文一致唱歌」を提
唱し、児童の発声法の改善、鑑賞教育の必要性を主張した。後、1922(大正
11)年から諸外国の音楽教育事情を視察し、帰国後は東京市音楽担当視学と
して行政面でも手腕を振った。
納所辨次郎は、1887(明治20)年音楽取調掛卒業。学習院教授で作曲
家。娘
文子と共に全国を巡り、唱歌の指導に当ると共に、数多くの録音を行った。
石原和三郎は群馬県勢多郡東村花輪生まれ。花輪小学校の校長を経て、東
京高等師範学校の付属小訓導に転出、ここで田村虎蔵や納所辯次郎と知り
合い、唱歌を作詞。その後、冨山房に入社。1894(明治27)年に「小
学校歌
集註解」を出版。また坪内逍遥のもとで「小学国語読本」を編纂した。
田辺友三郎は石川県金沢市生まれ。東京高等師範学校在学中から田村虎蔵、
納所辯次郎ら音楽家の勧めで、多くの唱歌を創作した。1903(明治
36)年、
静岡県浜松高等女学校の校長となる。その後掛川実科高等女学校校長、共
立三ケ日実科高等女学校と自彊学校で教鞭をとる。教育者として一生を送っ
た。
このように、田村虎蔵、納所辨次郎を中心として唱歌分野での言文一致運
動が推進していく。その流れの中で、1910(明治43)年、国定教科書
「尋常
小学読本
唱歌」が発行される。文部省唱歌第一号教科書である。この
尋常
小学読本唱歌の策定に際して、田村虎蔵、納所辨次郎らは蚊
帳の外に置か
れる。どこの世界でもある派閥争いと言うやつである。この
当時、西洋音
楽への姿勢として、全面的に西洋音楽の優位性を示し、それ
までの日本音
楽をともすれば否定しようというグループと、西洋音楽と日
本音楽の融合
を模索しようと言う二大勢力があったようだ。少し時代は下
がるが、山田
耕筰は前者の流
れを、中山晋平、佐々紅華は後者の流れを汲む作曲家と言
えるかもしれ
ない。それはさて置き、児童音楽教育の第一人者を自負して
いた田村は、自
分が蚊帳の外に置かれたことに大いに憤り、文部省唱歌を
攻撃するがまさ
しく後の祭。田村と納所の唱歌教科書は役割を終えたのだっ
た。しかし、彼
らの作った唱歌の一部は、今なお、その生命を保ち続け、
愛されている。そして、田村や納所の唱歌運動が、やがて赤い鳥、金の船
などの大正期の童謡運動へと繋がって行ったのではないだろうか。
文部省唱歌「村の鍛冶屋」
(作者不詳、大正元年、尋常小學四年生)
平井英子
アーネスト・カアイ・ジャズバンド
Victor/Japan 51272 Side-B
発売:1930(昭和5)年7月または8月

文部省唱歌「ゐなかの四季」
(作詞 堀沢周安、作曲不詳、
明治43年、尋常小學読本唱歌)
平井英子
アーネスト・カアイ・ジャズ・バンド
Victor/Japan
51272 Side-A
発売:1930(昭和5)年7月または8月

このレコードはアーネスト・カアイ(Ernest
Kaai)・ジャズバンドによる
伴奏で平井英子が歌ったもので、伴奏が大分ポップス(?)調です。「ゐな
かの四季」は、田村虎蔵を締め出して作られた「尋常小學読本唱歌」の一
曲、「村の鍛冶屋」は少し後の大正元年に作られた曲ですが、「村の鍛冶
屋」は教育色というか、お
説教臭さを感じます。
例えば全部の歌詞を眺めると、単なる鍛冶屋の風景描写ではなく、「怠け
たい心に打ち克ち、一生懸命、黙々と働くことの尊さ」を吹き込もうとし
ているように見えますし、刀は作らず農機具だけを作るという詞にも、何
らかのメッセージ性を感じます。それにしても、これだけ鍛冶屋の作業風
景を細かく描写しているにもかかわらず、鍛冶屋の親爺の、人間としての
有機的実在感とでもいうべきものが感じられないように思うのですが、そ
れが大変不思議です。
ところで、私も小学校で「村の鍛冶屋」を習いましたが、歌詞が部分的に
違っていますし、三番、四
番は削除
されていました。どうも蛍の光にして
もこの曲にしても、戦後の歌詞の改訂や削除は、お役人のご都合主義とい
うものを感じます。それは、臭いものにはフタをして、後はごまかしゃそ
れで済む、という極めて荒っぽい印象です。
なお、「いっこく(一刻)親爺」とは頑固一徹なおやじ
さんという意味だそ
うです。また、昔の歌詞による歌唱を現代の耳で聞くと、文語調の格調高
い歌詞と西洋旋律による明るいメロディーに、一抹の違和感を持つのです
が、どうでしょうか。また「ゐなかの四季」の作詞者、堀沢周安(1869-19
41)は香川県出身の教育者で、氏の他の作品は「大阪市歌」や「明治節」な
どがあるそうです。「ゐな
かの四季」は風景を描写した、教育色や政治色
は感じられないように思います。この歌詞に出てくる「はるご」とは春に
育てるカイコのことで「春蚕」と書くそうです。また「さなえ」とは、田
んぼに植える前の、稲の苗のこと(早苗)だそうです。
