黎明期のオーケストラ
3.佐々紅華と浅草オペラ〜1〜
(このページには音源がありません)
左から 佐々紅華、時雨音羽、野口雨情、中山晋平
大正時代の西洋音楽の大衆化を語る上で、鈴木三重吉らの「赤い鳥」
運動と、佐々紅華(さっさこうか)らを中心とした浅草オペラの勃
興と関東大震災を最終的原因とした衰退があろう。殊に後者は、そ
の後の二村定一、榎本健一らに代表されるボードビル・ショーや昭
和ジャズ、浅草オペラの手法をほぼ原型のまま踏襲している宝塚歌
劇、藤原義江に代表される本格的オペラ運動のすべての原点になっ
ているという点で、特に重要であると思う。
時代の大転換期とは不思議なもので、転換期を担う人々が、まるで
神の見えざる手の力のように、巧妙に配置されている。これらの人々
は、もちろん個々の自由意志によって活動するのだが、それらを振
り返るとき、まるで大演劇を見るような、ストーリーがそこにある
ことに気がつく。その意味で言えば、大正時代とは大衆が自身の力
を自覚した時期であり、短期間ではあったが、大衆が西洋文化を消
化吸収し、日本的西洋文化=和洋折衷文化を花開かせたときでもあっ
たように思う。
では、浅草オペラの勃興から衰退までを佐々紅華を中心に振り返っ
てみよう。
佐々紅華は、明治19年(1886年)東京北上野に生まれる。4歳のと
き家族は横浜市住吉に転居。父は三井に勤め、母は横浜小学校の教
員(後、横浜紅蘭女学校=現双葉学園で教鞭をとる)。音楽が好き
で東京音楽学校を受験。合格するが父の勧めで蔵前高等工業学校の
工業図案科に進む。工業デザインを勉強する一方でコーラス部を結
成した。明治40年(1907年)、同校を卒業し印刷会社する。ここで
もコーラスグループを結成。このコーラスグループの指導にアルバ
イトで来たのが山田耕筰であった。明治43年、日本蓄音機商会(現
日本コロムビア)の図案室に転職した。佐々紅華のデザインは秀逸
で、代表的なものとしては明治44年春にレコードを扱っていた蓄音
機店、時計店、洋品店、楽器店に配布された、通称「花見カレンダー」
という佐々紅華デザインの作品がある。
また、当時ヴィクターの"His Master's Voice"(犬が蓄音機に耳を傾
けている)に対抗し、大仏が蓄音機に耳をそばだてるという図案をデ
ザインしたのも佐々紅華のようだ。
大正末期のものと思われる日本蓄音機商会のレコード袋
この二つを見てもわかるように、当時のレコードの主流は江戸時代か
らある芸能が一般的で、西洋音楽は一部の輸入盤以外はほとんどない
という、むちゃくちゃ寒い状態だったらしい。デザインの仕事の一方
で、音楽への情熱を捨て切れなかった佐々紅華は、大正2年(1913年)、
当時日本蓄音機商会の広告部長であった米山正と共に日本蓄音器商会
を退社。米山が常務となった東京蓄音器株式会社(レーベルは東京れ
こをど)に入社、文芸部長となる。今で言う、レコードプロデューサー
である。
つづく