黎明期のオーケストラ

3.佐々紅華と浅草オペラ〜3〜

帝国劇場でのオペラ公演(明治44年〜大正5年)に始まる、日本
人による本格的オペラ公演は、大正5年5月に帝劇洋劇部の解散
という形で一旦は終息する。しかし、帝劇で洋劇部を指導してい
たイタリア人ローシーがローヤル館でのブルジョアをターゲット
としたオペラ公演(大正5年10月〜大正7年2月)行い、オッフェ
ンバックの作品など、海外のオペレッタを積極的に取り上げる。

一方、高木
徳子(1892-1919)によって、1916(大正5)年5月27日
から浅草キネマ倶楽部で行われた「世界的バライチー一座」公演
が大成功する。これが日本人によるミュージカル公演の最初と言っ
て良く、ここに浅草オペラは産声を上げる。しかし、この時大衆
は、初めて見る高木徳子のトゥー・ダンスは評価したものの、そ
の他についてはあまり関心を払わなかったようだ。

世界的バライチー一座の解散後の同年9月、高木徳子は、新劇運
動を展開し後年音楽評論家となる伊庭孝(1887-1937)とタッグを
組み、
高木徳子の弟子たちや伊庭孝の門下、解散した帝劇の洋劇
部メンバーからなる一座を結成し、川上貞奴一座との合同公演を
甲府桜座で行う。甲府公演の後帰京した高木徳子・伊庭孝の一座
は、同年12月31日から赤坂溜池の演技座で東京公演を開始。そし
て、翌1917(大正6)年1月22日から浅草常盤館へ出演し、伊庭孝
作「女軍出征」を舞台にかける。この「女軍出征」が作品として
未曾有の大成功を収める。この大成功が、浅草オペラをその後の
発展に導いた。

女軍出征:初演時のスナップ  
高木徳子(後列左端)率いる一座の「女軍出征」舞台写真(写真提供:春光さん)。
初演時のスナップだそうです。また、前列左から二人目は伊庭孝とのことです。
春 光さん、ありがとう!!


女軍出征 喜歌劇「女軍 出征」(作者記載なし)
塩原秩峰 柏村貞雄 外(管弦楽伴奏)
オリエントレコード A1413/A1414
録音:1917(大正6)年頃(推定)
アコースティック録音

女軍出征
第一次世界大戦で男性兵士が不足し、かわりに女性兵士が出
征していくという話だそうです。当時世界的に流行した「ダ
ブリン・ベイ」「チッペラリーの唄」などを取り入れ、ダン
スもちりばめられたものだったそうです。
こ のレコードが果
たして伊庭孝の作品なのか、もしくはそれを基にしているの
か、はたまた全くの別物なのかがわかりませんし、女優陣は
一切不明なのは大変残念です。ちなみにドクタンとは「独探」、
ドイツのスパイという意味です。「ロシアの女を知ってるか
い?」「知ってるさ、カチューシャだろう」というくだりは、
大正3年、芸術座の松井須磨子でカチューシャの唄が大当た
りしたことを受けていると思います。


一方、佐々紅華はプロデューサーとして、また和製創 作歌劇作家
として、精力的に活動を展開する。その中で佐々紅華が属してい
た東京蓄音器や、その動きに刺激されたニッポノホンがお伽歌劇
のレコードを製作する。ここに、佐々紅華の目指したお伽歌劇が、
大正2年の宝塚少女歌劇の創立に端を発する少女歌劇が、一つの
時代のムーブメントとして定着したと言っていいだろうと思う。

ついに1917(大正6)年、佐々紅華は本格的に浅草オペラの世界に
足を踏み入れる。佐々紅華が作曲・演出を担当、演出・振付兼俳
優として石井獏、杉寛、沢モリノ他の俳優陣で東京歌劇座が結成
され、10月23日から浅草日本館でオペラの常時公演をが始まる。
この常時公演は当初和製創作歌劇が中心だったが、翌1918(大正7)
年2月からは、ローヤル館の専属だった清水金太郎・静子夫妻、
当時日本一のピアニストと称せられていた澤田柳吉を加え、外国
オペレッタや
澤田柳吉によるピアノ独奏(ベートーヴェンの「月
光」や「悲愴」などを演奏したようだが、観客のヤジに激昂した
沢田が舞台から降り、沢田の浅草出演は数えるくらいしかないよ
うだ)
を加え、3月末まで行われた。4月からは、アサヒ歌劇団
が日本館での公演を行い、清水夫妻、石井漠は旅興行を行う。

ベー トーヴェン ピアノソナタ第14番「月光」
澤 田柳吉(Pf、1886-1936)
日 東蓄音器 10031/32
発売:1931(昭和6)年5月
電気録音
月光  第一楽章 リアルオーディオ  第一楽章
月光  第二楽章 リアルオーディオ  第二楽章
月光  第三楽章 リアルオーディオ  第三楽章
※本音源は、毛利眞人氏の提供によるものです。ありがとうございま す。

澤田柳吉の浅草での演奏については、当時浅草で過ごし、後に劇作
家と
なった高田保(1895-1952、著作権消滅)が著 書「青春虚實」の
中で、次のように記述しています。

「タキシードなどとは民衆を侮辱するものだ」
 という意見が楽屋(管理人注:この話は、澤田柳吉が、辻潤、佐
藤惣之助、小生夢坊ら、当時のアナーキスト達と作った常盤樂劇團
のことを指す。浅草の観音劇場で大正9年5月6日から「トスキナア」
などで公演を行ったが、同年6月下旬までには解散した)で持ち上
がつた。あれは貴族の服装である。浅草は貴族入ルベカラズの聖天
地である。民衆の服をもつてせよ。
 プログラムの中に、澤田柳吉のピアノ獨奏といふのがあつたのだ。
曲目はベートオヴェンの「月光曲」。初日には約束どほりのタキシ
イドで出たのだが、それは浅草ではないぢやないかといふ問題だつ
たのである。クロポトキンやパクーニンを論じていたのだから無事
に納まる筈はない。その翌日からは着流しで出ることになつた。
 幕が上がる。中央にでんと立派なグランド・ピアノが艶々した黒
塗りで光つてゐる。上手から飄々として痩身の澤田柳吉が、よれよ
れの袷一枚、それによれよれの兵児帯をしめ、それも結びつきりに
結んだ端をだらりとだらしなく下げた格好で現はれる。タキシイド
の時は正面客席に向かつて慇懃に頭を下げたものだつたが、それも
貴族社會幇間の風習だといふので止めてしまつて、いきなりピアノ
の前に腰をかける。しやんと構へて鍵盤を叩きはじめるのだが、格
好が格好なのでちつともしやんとしない。見物たちは物もいはずたヾ
きよとんと眺めてゐる。ありや何だね? ピアノの調子を直してゐ
るんだろ。察しのいヽ連中はさうおもつて、やがて出て來る演奏者
を待つてゐる。曲目が曲目だつたから誰だつてそれが音樂だなどと
はおもつてゐない。そのうちに澤田柳吉は立ち上がる。黙つてそれ
なり引込んでしまふ。と幕がしづかに下りはじめる。これではもは
や見物たちは
鳴りたてる氣にもならない。なあんのこつたいと呆
れて立ち上がる。さうでなくてさへがらんとした客席だつたが、そ
れが忽ち空つぽになつた。
 三日目にはただの着流しではといふので、その上に大道具方の半
纏を羽織つて出たが、これは日本音樂史演奏篇中、一頁を割いて必
ず特記して然るべきことだつたらう。だがいかに浅草でもこれでは
客のよりつく筈もなかつた。四日目となるともはや、よほど戸迷ひ
した客でもなければといふ始末になつてしまつたのだが、可哀さう
なのは「トスキナア」だつた。これだけはまともな男女優の出演で
まともな喜歌劇だつたのだが、いかんせん恐ろしい「どん底」※

この民衆的ピアノ演奏の「月光曲」との間に挾まつては致し方もな
かつたのである。二の替りも出せずにこの一座は解散してしまつた
のである。

※ゴーリキー(1868-1936、ロシアの作家。初期社会主義リアリズム
の代表的作家と言っても過言ではないだろう)原作の舞台だが、

潤、佐藤惣之助、小生夢坊らのこの舞台は、原作以上にどん底状態
だったようで、ここにあげた高田保の文章の、その少し前に、次の
記述がある。

 あの頃のあの樂屋、夢だつたとして語るのがいヽ位のものだ。そ
こには幹部も大部屋もなく、一つ部屋に大勢がかたまりあつて、い
つも聲高に何かを論じたてヽゐたものだつたが、それがすべて、や
れクロポトキンがどうだとか、パクーニンがどうだとか、でなけれ
ばマックス・スチルネルがどうだとか、到底役者諸君の口にする文
句ではなかつた。(一部略)
 その役者連中、いづれも汚らしいルパシカを引つかけ、顔はとい
へばドーランを無茶苦茶に塗りたてヽゐたのだから、一寸説明しよ
うもない。だがそれで十分事は足りたのだ。何としても芝居が芝居
だつたからだ。 
 夜でも晝でも
 牢屋は暗い
 …

 ベルが鳴ると一斎に舞臺へ飛び出して、調子ぱづれの聲で勝手に
唄ひまくる。お察しのとほりゴルキイの「どん底」だつたのだが、
さてそのセリフと來ると、あるものは馬鹿高の甲聲で喚きちらす、
あるものはたヾ口の中でぼそぼそと呟いて廻る。イキを合わせるど
ころか、キッカケも何もなしに自分勝手のてんでんこだつた。いや
はや投げ出したいやうなものだつたが、しかし當人たちはすつかり
いヽ氣持だつたのだ。
「どうだい! すばらしい雰圍氣が出たぢやないか!」
 
雰圍氣。アトモスフェヤァ、それがその頃の合言葉だつた のだが、
それを醸し出すことだけだつたら、實際大成功だつたといってもいヽ。
實際ゴルキイの原作よりももつと原作的だつたといへるほどに氣違
ひじみてゐて、たしかにどん底的な世界をつくり出してゐたからだ。
いやそれをいふなら、舞臺よりも樂屋内のほうがずつと優秀だつた
といつた方がよかつたかもしれぬ。といふのは、この連中と來ると、
晝の舞臺のために顔をつくると、扮装もそのまヽで夜までずつと、
その役になりきつたやうなつもりでうつとりとしてゐたからだ。下
らんことを誰かがいふと、
「おい! 日本人みたいなこといふな!」
 誰かが呶鳴つた。ロシア人になりきつたやうなつもりだつたから、
クロポトキンやパクーニンを論じてゐたのである。さうしてゐる内
に何か外へ出なければならぬ用事があると、構はずそのまヽの格好
で濟ましたのだから大變な役者たちだつた。

恐ろしいと言う表現はこういう状態を指している)


それでは、お伽歌劇、少女歌劇の音源をいくつか紹介しよう。

いたづら蛙 お伽歌劇「いたづら蛙」(作者不明)
東京 専属演藝部員(管弦楽、三味線、鳴物伴奏)
ニッポノホン 397/398
録音:大正初期?
アコースティック録音

いたづら狸-Real Audio
レコード番号から考えると、かなり初期のお伽歌劇と思い
ますが、はっきりした製作時期、録音時期はわかりません
でした。明治から大正初期にかけてのニッポノホンは、必
ずしも番号順に発売していたわけではなかったようですが、
このレコードは大正に入ってから発売されたものだと思い
ます。演奏は「専属演藝部員」という、詳細不明な団体。
が、想像をたくましくすると、比較的大勢の演者によって
進められていること、演技力(特に男性陣)は十分認めら
れることなどから、ひょっとしたら、帝劇の関係者による
大正初期の演目、録音ではないかという気がしています。
音はかなり聞き辛いですがご容赦ください。


夢の瓢箪お 伽歌劇「夢の瓢箪」(作者不明)
柳 田貞一 木村時子 相良愛子(管弦楽、鳴物伴奏)
ニッ ポノホン 15035/36(2枚組4面)
発売:1922(大正11)年頃?
アコースティック録音

夢の瓢箪 Real Audio
オー ル浅草オペラ キャストの大変楽しいお伽歌劇です。和
製音楽と西洋音楽のごった煮になっています。途中に出て
くるアリア(?)の前半はどう聴いても「ここはお国を何百
里・・・」に聞こえますが、長調と短調が行ったり来たり、
飽きさせない音楽になっていると思います。まぁ、ストー
リーは他愛もないものですが、瓢箪のお尻って、大きい方
なのか小さい方なのか、ちょっと気になってしまった私な
のでした。レコードを聴く限りでは大きい方を指している
みたいだけど、蔓がついているのって小さい方じゃなかっ
たっけ? そんなことを考えていたら、崎陽軒の焼売を買
うと付いて来る醤油の入れ物を思い出した、私でした。


お伽 歌劇「武者会議」(佐々紅 華作)
柳田貞一 高井ルビー 明石須磨子 園春枝
ニッポノホン 15273

発売:1923年頃?
アコースティック録音
武者会議−リアルオーディオ
レコード番号から考えると、大正12年頃の発売のようです。
五月人形の面々が晴れの舞台を独り占めされたために一作
戦考えるというストーリーですが、佐々さんらしく電話で
やりとりする場面が出てきたり、夕刊(?)を読むなんて
いうくだりが出てきたり、まるでちょっとしたかけあい漫
才でも聞いている様な、面白い展開です。ちなみに「あし
だ」という言葉が出てきますが、歯の高い下駄という意味
で「足駄」と書くそうです。録音はオチが聞き取りにくい
のが難点ですが、それ以外はほぼ鮮明で、柳田さんの演技
力が光っているように思います。


うかれ雛お 伽歌劇「うかれ雛」(作者不明)
三 枝鏡子 水木葉子 藤村日出子 東君代
音 楽鳴物
東 京れこをど 3245
発売:1921(大正10)年頃?
アコースティック録音
うかれ雛 Real Audio
これはスゴイです。何がって、B級のおもしろさです。例
えば、台本棒読みの掛け合い。なぜか「天国と地獄」(有
名なフレンチカンカン)を唄い出す雛人形たち。そして、
その歌詞が「テレツク・テレツク・テン」の繰り返し。こ
れは、スィングル・シンガーズのジャズ・バッハや、カー
ル・オルフの反復音楽を30年以上前に先取りした、先見性
溢れる演奏と言えなくもないような気もします。ですが実
際は、いい加減に作ったとしか思えない安普請さが前面に
出ているように思います。しかし完全にB級と言い切れな
いところもあり、なぜか何回も聴きたくなる不思議なレコー
ドでした。


お彼岸お伽歌劇「お彼岸」(佐々紅華指導)
柳田貞一 高井ルビー 園春枝  明石須磨子
ニッポノホン 15248
発売:1923(大正12)年頃?
アコースティック録音
お彼岸 Real Audio
このレコードは、お伽歌劇となってはいますが、全く他の
お伽歌劇とは雰囲気が違います。しっかりとしたオペレッ
タになっており、音楽も素晴らしいものになっています。
それもそのはずで、このレコードは、佐々紅華が書き下ろ
した「嘘の皮」というオペレッタ(佐々自身はオペレット
と記しているようです)の一部分を抜粋したものなのです。
嘘の皮は、佐々紅華や伊庭孝が中心となって興した生駒歌
劇團の第二回公演の演目になっています。如何に佐々紅華
の音楽が洗練されたものだったが、はっきりとわかる、嬉
しいレコードです。


鞠ちゃんの繪本−ニッポノホン童謡「毬ちゃんの繪本」(佐々紅華作詞作曲)
東京七声歌劇団(木村時子、天野喜久代)
ニッポノホン 3659/3660

発売:1919(大正8)年11月
アコースティック録音
鞠ちゃんの繪本−リアルオーディオ
このレコードは、東京蓄音器のお伽歌劇レコードに刺激さ
れたニッポノホンが、浅草オペラ以前の帝劇オペラから指
導的役割を演じた清水金太郎が主宰していた七声歌劇団を
使って作成した、お伽歌劇のレコード群の一枚です。同時
期に茶目子の一日(10月)、すきとくわ(12月)などが発
売されたそうです。佐々紅華のお伽歌劇への情熱が、着実
に大衆に定着して行った表れでしょう。なお、後年の平井
英子、松山浪子による録音とは内容に差異があり、特に後
半の電話をかけるシーンからは、まったく違う話になって
います。


神の恵み−オリエント
こぶ取りの話
おもちゃと太郎
籐六と人形 
歌劇「神の恵」 (作詞作曲者不明)
東京旭少女歌劇団(ピアノ伴奏)
オリエントレコード 1813

録音:1918(大正7)年4月〜1920(大正9)年2月
アコースティック録音
神の恵−リアルオーディオ

歌劇「コブ取の 話」
東京旭少女歌劇団(ピアノ伴奏)
オリエントレコード 1785

録音:1918(大正7)年4月〜1920(大正9)年2月
アコースティック録音
神の恵−リアルオーディオ


歌劇「おもちゃと太郎」(鈴木康義作)
東京少女歌劇団
(管弦楽伴奏)
白川澄子 谷崎歳子
貴島田鶴子 千種百代
外十数名
オリエントレコード 1934/35

録音:1921(大正10)年頃?
アコースティック録音
おもちゃと太郎−リアルオーディオ

歌劇「籐六と人形」(鈴木康義作)
東京少女歌劇団
(管弦楽伴奏)
白川澄子 谷崎歳子
貴島田鶴子 千種百代
外十数名
オリエントレコード 1936/37

録音:1921(大正10)年頃?
アコースティック録音
おもちゃと太郎−リアルオーディオ

この音源と佐々紅華に直接の関係はありませんが、浅草オ
ペラで一ジャンルを確立していた「少女歌劇」ものという
ことで取り上げました。

舞踏家西本朝春と、後の東京少女歌劇団主宰鈴木康義は大
正6年3月、少女歌劇「日本歌劇協会」を創立します。こ
れは、大正2年に設立され、大正3年4月に第一回公演を
行った宝塚少女歌劇団の活動に刺激を受けたものと思いま
す。
日本歌劇協会は、大 正6年10月には「ビューチー一座」
と改名しますが、同年末には一時解散、翌大正7年2月に
「エンパイヤ歌劇団」として復活、4月からは「アサヒ歌
劇団」として、当時浅草オペラの常設館であった日本館で
活動を展開します。

アサヒ歌劇団は一条久子、明 石須磨子、貴島田鶴子、梅村
千代子らをスターとした、若い女優だけを使った少女歌劇
や、男優も加わった史劇やお伽歌劇を主に演じていたよう
です。ちなみに、後に藤原歌劇団を結成・運営し、日本の
グランド・オペラの発展に多大な功
績を残 した藤原義江が、
新国劇から浅草オペラの道に入ったのは、大正7年4〜5
月のことでしたが、最初に入ったのが、この
アサヒ歌劇団
でした。その後
アサヒ歌劇団は、大正8年9月下旬に日本
館から駒形劇場に移り単独公演を行いますが、収支バラン
スが釣り合わず、翌大正9年2月に鈴木
康義は一座を率い
て名古屋を本拠地に移し「
東京少女歌劇団」として活動す
るようになります。

以上のことから、
旭少女歌劇団のレコードは大正7年4月〜
大正9年2月の間に録音されたものと思われます。レーベ
ルには、「旭少女歌劇団」という記述しかないために、実
際誰が歌っているのかは定かではありません。ですが、神
の恵で人形役を演じている一番若そうな声は、ひょっとし
たら一条久子なのかもしれません。

なお、これらのレコードは製作時の技術的問題と思われる、
再生音に周波数の変動などが見られます。ご了承ください。


ちょっと脱線するが、浅草オペラとはどんなものだったのか? ま
た、
浅草オペラの文化的背景を少し考えてみよう。

まず、浅草オペラの一日を再現してみる。当時の浅草は、東京一の
繁華街。殊に活動写真館や演芸場が集中していた六区とよばれる一
帯は、ちょうど今で言えば原宿や渋谷のような、若者を中心とした、
人と熱気が渦巻く地域であったようだ。

そんな浅草では、劇場の一日は朝10時頃からの「昼の部」で始まる。
5または6演目で昼の部がおよそ午後4時半頃に終了。で、午後5
時頃から午後11時頃まで、昼の部と同一内容で、夜の部が行われる。
観客は、好きな時間に劇場に入り、好きな時間に帰っていった。新
作の稽古は舞台が終わってから行われたとのことだから、床につけ
るのは深夜。ほとんどヘトヘト状態ではなかったのではなかろうか。
これが正月公演なんてことになるとさらに大変で、ストーリーをは
しょって5回興行とか6回興行とかにしていたらしい。こうなると
もうストーリーがどうのこうのという問題じゃなくて、劇が始まっ
て一曲歌ったと思ったら、もうエンディングに突入なんてこともあっ
たらしい。

金竜館プログラム 大正10年9月2〜11日 プログラム表紙
1921(大正10)年9月2〜11日の金竜館プログラム(画像をクリックすると拡大しま す)
(小木新造 芳賀徹 前田愛 編「東京空間 1868-1930 第3巻 モダン東京」筑摩書房 1986年発行より)


こうして見ると、金竜館の演目は単なるオペラだけでなく、歌唱や舞踏をキー
ワードとした幅広いものであることがわかります。やはり圧巻なのは「魔笛」
でしょう。タミーノを田谷力三、パミーナを清水静子、脇を固めるパパゲーノ
を清水金太郎、パパゲーナを木村時子、ザラストロを柳田貞一、夜の女王を安
藤文子という、ほぼオールスター・キャストと言っていいでしょう。


それほど、浅草オペラは観客が着いた。山野楽器から発売されたCD
「浅草オペラ 花ひらく大正浪漫」の中にある増井敬二氏のライナー
ノーツや、同著「浅草オペラ物語」(現代芸術社、平成2年発行)
によると、当時浅草オペラ専門館として運営されていた金竜館の大
正11年の入場者数は、512,471人で、東京にあった他の劇場26館の
平均入場者数の約3倍。この年の金竜館の興行日数は361日である
から、一興行日あたりの観客数は、1,420人となる。そしてこれは
参考数字にしかならないが、震災後再建された金竜館の定員数は
771名。仮に、この数字が震災前の定員数と大きな差異がないとす
るなら、一日二回の興行がほぼ連日満員だったことになる。

これがどれだけすごい数字だったかと言えば、同年の帝劇の入場者
数は360,800人。帝劇の興行日数は332日で、
一興行日あたりの観客
数は1,087人。しかし帝劇の定員は1,700名であった。
一興行日あた
りの観客数
を定員数の割合で比較すると、金竜館は184%(定員数を
771名とした場合)に対し、帝劇は64%。これだけ見ても如何に浅草
に、そして金竜館に集客力があったかがわかる
。それは、異文化と
の数少ない接点であり、日常の延長線上とはある程度の距離を感じ
る、非日常的な空間が、日常的に展開されていたからかも知れない。
その意味で考えると、浅草という地区は、現代の「ディズニーラン
ド」に近い存在であったのかもしれない。

今年(2003年)、ディズニーランドは20周年を迎えたそうだが、ディ
ズニーランド最大の強みはリピート率97.5%にあるそうである。こ
れは、1000人の客の中で実に975人が再度訪れているという意味だ。
なぜこんなにディズニーランドが成功したのか、いくつもの分析レ
ポートがあるが、結局は、ディズニーというブランド・バリューも
さることながら、

1)アトラクションなどが常に変わり続け、観客に常に新しい刺激
  を、一般大衆に新しい話題を与え続けていること。
2)非日常的空間であると同時に、多くの日本人が漠然と持ってい
  る「欧米コンプレックス」の具現的対象である、アメリカの、
  しかも一番元気があった1950年代のアメリカの空気がそこにあ
  る。
3)とは言うものの、日本人によって運営されている=日本語が通
  じるというという「確実な安心感」がある。

が原因として語られる。これを当時の浅草に置き換えると、ほぼそ
のまま当てはまるのではないだろうか。常に新しい映画や演劇が提
供されており、ヨーロッパらしき文化を、微妙な距離感で、かつ日
本人が演じ、日本語で語られ歌われることによる安心感。ペラゴロ
と呼ばれた、熱狂的オペラ・ファンは学生が多かったという話だが、
これもディズニーランドの来客者が若者を中心に構成されているの
と共通している。

もっとも、ディズニーランドと浅草では、決定的に違う点がある。
それは、ディズニーランドは高値戦略をとっているという点だ。ディ
ズニーランドの平均客単価はおおよそ9500円だそうだ。つまり、家
族4人で行けば交通費なども含め、4万円以上出費する勘定になる。
この高値戦略によって、そうちょこちょこは行けない存在としてディ
ズニーランドが存在している。つまりディズニーランドに行くこと
自体を、ある種のステータスにさせていることに成功している。こ
れは、吉野家に行って牛丼を食べても自慢にはならないが、丸ビル
や帝国ホテルでフランス料理のフルコースを食べれば自慢になると
いうのと同じ心理だ。この点、浅草オペラは違う。言ってみれば、
吉野家価格で非日常の、ヨーロッパの香りらしきものも味わうこと
ができた。これが浅草オペラだと思う。

関東大震災までの大正時代は、大正デモクラシーの波の中ではぐく
まれた、大衆の力の自覚、個の自覚という点で、明治から昭和20年
までの歴史の中で異彩を放っていると思う。それは日清、日露、第
一次世界大戦の勝利とそれによる国際意識の形成といった、政治的
要因もさることながら、例えば人間主義を唱え「新しき村」を実現
した武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派による楽天的個人主義と、そ
れに大きく影響を受けた自由主義教育運動、また、マルクスやエン
ゲルスによる共産主義思想の勃興とレーニンらによるソビエト連邦
の成立に刺激された共産主義思想の流布といった、個にリベラルな
風がふいていた、日本が大衆レベルで国際化する時代であった。そ
の中で花開いたのが浅草オペラだったのだろう。
(つづきは製作中です)

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